パラダイス・ナウ
ドラマ【海外映画】についての記事が満載です。
ドラマ【海外映画】に関するブログ記事を募集しています。
1571


パラダイス・ナウ
↑
シェアブログに投稿するために必要な表示です

去年のアカデミーで話題になり ゴールデングローブ外国語映画賞までとったとかいう作品。
オーストラリアでは全く話題にもならず ひっそり公開されておりましたが レンタルに出ていたので 借りてみました。
パレスチナの自爆テロについて という タイムリーなテーマで これは昨年のシリアナに続いて 自爆テロをする人々はどうして そのような行動に走るのか と心理を掘り下げています。
この作品 パレスチナ人監督によって 作られただけあって (もっとも 本人は 「またチャンスがあったとしても こんな映画はもう作らない」 と 断言しているほど 危険が続いた撮影だったようですが) シリアナよりも さらに深い考察が されておりました。
シリアナでは 自爆テロ犯は 貧困 希望のなさから イスラム教のセクトへと 誘いこまれ 教育の結果 自爆テロへいたる という説明がされており もっともだな と 納得させられました。
しかし パラダイス・ナウでは 主人公が二人になることから より深い心理洞察が行われています。
主人公 サイード と カレッド は 幼馴染の友人で サイードはどちらかといえば 穏やか しかし カレッドは すぐ激しやすく 一般的なイスラム教男性信者のイメージが重なります。
そのカレッドも 子どもが巻き添えになったというテレビのテロ事件報道を観て 犠牲者の家族への懸念を口にするように いわゆる 普通の人 でしかない。
サイードと カレッドは 自動車整備工場で働いており そこへ来る スーハという イスラエル抗戦におけるパレスチナの英雄の娘と 密かに思いあっているけれど それを 表だって口にすることはないのも 前に観た イスラム系の映画でよく観るような 普通の青年。
左がカレッド 右がサイッド。
水タバコを吸っているのが いかにもイスラム。


そんな 普通の青年たちが 普通にイスラムテロ組織の一員であり そうした普通の人たちを普通に 自爆テロ要員として リクルートするのが 友人だ という事実が 重い。
当然カレッドとサイードの家族は 彼らの友人が テロ組織の要人であることなど知らず 単に友人としか知らないので 泊まっていくといえば 大喜びで歓迎する。
それが 自爆テロを思いとどまったり 家族に知らせてしまい 計画が失敗するのを防ぐ 口封じのためだとも知らずに。
シリアナでは テロは ある意味 テロ要員として 命を捨てても構わないだろう 言葉は悪いが 捨て駒であってもいいだろう と 思えるような人々 希望など なくても 当然だ と 思えるような人々が 自爆テロを行うのだ とでも いうようだったが パラダイス・ナウでは 本当に
「普通の人」
が テロに組み込まれている。
その事実は 実際 シリアナで描かれた
「希望のなさ」
が パレスチナでは 人々の日常となっている ということを 示している。
家族よりも 恋する人よりも 優先されなくてはならない ジハード とは 私たちが想像するような 崇高な意思や 狂信や 神への絶対服従などではなく 単に 普通に果たさなくてはならない 義務の一つに過ぎない とでもいうよう。
テレビで放映される テロリストの 決議声明ビデオ撮影が 普通にビデオショップでレンタル、販売されているのも テロというものが 普通に 人々の生活に組み込まれていることを示す。

勿論 サイードもカレッドも 彼らなりに 逡巡する様子は見せるが それでも 彼らは 自分の運命に従って テロ決行の準備をする。
しかし カレッドの決議声明ビデオが うまく撮れないシーンではつい笑ってしまったけれど もしかしたら この二人の 自爆テロが 失敗に終ることを 暗示するものだったのかもしれない。
そして この自爆テロ失敗が 二人の運命を分ける。
以下 ネタバレしていますので この先は 映画をご覧になった方だけ どうぞ。
どちらかといえば 自爆テロに積極的であり 自分の運命にそれほど 疑いを感じていなかった カレッドは いなくなったサイッドを 捜すうち スーハに 自爆テロだけが 現在の状況を打開する方法ではない と オプションを示されたことで 初めて 今まで教え込まれてきた 抵抗の手段 自分たちの苦境を世界に示す手段が 唯一のものではない と 気づかされ 自爆テロをやめ 友人のサイッドの 命を救おうと奔走する。
片や 元々はそれほど 自爆テロというものに 熱心でもなかったように見えた サイッドだが テロ失敗のせいで 実際のイスラエルの姿を目にし 土地を奪われたパレスチナの貧困と 土地を奪ったイスラエルの繁栄と豊かさを 知ることで この貧困ゆえに イスラエルに寝返らざるを得なかった父が 失ったプライド と パレスチナそのものが味わっている 屈辱を更に知ることになり 父の汚名をすすぎ その名誉を奪った イスラエルという国への 恨みだろうか 彼は 自爆テロを決行する。
この映画は 二人の主人公を持つことで シリアナで描かれた テロリストの現実に対して 解決策を提示できたように感じる。
国家を挙げての全体的な テロこそが 自分たちの権利を世界中に喧伝し 世界に 自分たちこそが犠牲者である と 思い込ませるだけの力を持つ抑圧国に対して 自分たちの恨み 憎しみ そして 被抑圧国が耐え忍ばなくてはならない不公平さをわからせる 弱者が持つ唯一の手段である という 刷り込みは 確かにテロリストを産む温床となっている。
そして 正義のための戦いで死んだ者は 神の元へ行ける という宗教的保証は テロという行為に対する 人々の恐怖を取り除く役目を果たしている。
シリアナで描かれた 絶望 選択肢のなさが テロリストを産む という構図は この映画でも描かれてはいるが しかし 一般の映画では テロリストの典型的人物像だった カレッドは スーハと対話するうちに 選択肢はあるのだ と 気づく。
つまり どんなに テロリストになるよう教育されていたとしても 名誉がかかっていたとしても 本当に 自分の国が 正当に扱われるようになるために世界に知らしめるために 他の手段があり それにより無駄に命が失われることがなくなると芯から理解できれば テロという行為は なくなるのではないか と この映画は 示唆しているのではないか。
テロリストの持つ 不公平さへの恨み は サイードの場合 個人的な 恨みにも 裏打ちされている。
彼のテロは いわば 父の弔い合戦 とでもいうようなもので だからこそ サイードは決行できた。
つまり テロリストが教育によって 作られるものならば 世界が その教育以外にも 選択肢を与えること どちらか片方の言い分だけではなく また イメージによって 偏見を持つのではなく 双方を公平に扱うことで 逆教育も可能なのではないか と 監督は言いたいのではないか と思う。
サイードは このまま 両国の対立が続く限り いつか 家族など大事な人を失った という 私怨に裏打ちされ そうした思いは 国家による教育などより はるかに強く こうした犠牲者を防ぐことと カレッドが経験したような 「テロ以外の選択肢」を 世界が示すことで テロは防げるのではないだろうか というのが 監督からの メッセージではなかったか。
最後に白光で 映画は終わる。
この白光は ユダヤ人ジャーナリストからは
「テロリストの聖人化」
と 批判されていたが 観ている側からすれば 普通に働く 恋だってする 普通の青年が最後に見たのが 恋していた女性の顔や 家族の面影などではなく 単なる発光だったことは あまりに虚しい限りだった。
一番最初のポスターが一番 映画の感じが出てるような気がしますが 他にこんなのがありました。


映画のキャッチフレーズとでも言うのでしょうか そこに 実は
カミカゼ
とかかれており 外国での カミカゼ特攻隊というものの 扱いというか 捉え方がなんとなくわかるような。
日本人としては あんまり 嬉しくないですが。
・この記事はドラマ【海外映画】に投稿されたプリシラさんのブログ記事です。
⇒http://queenofthedesert.blog72.fc2.com/blog-entry-186.html
スポンサード リンク
ドラマ【海外映画】に投稿されたその他の記事
- Keeping Mum(日本未公開)
- #55.パフューム
- たまには 負けた映画の話でも
- パラダイス・ナウ
- ラスト・ホリディ
- ザ・グッド・シェパード(The Good Shepherd )
- すべてはその朝始まった
パラダイス・ナウの評価
- 評価合計(評価回数): 3点(1回)
- トラックバック数 : 0回
- この記事への評価分布
ルポユーザーからの評価
ルポ外からの評価
-
Excellent!
-
Good
-
So So
-
Not Good
-
Excellent!
パラダイス・ナウへのトラックバック一覧
ブログルポユーザーがトラックバックすると、この記事の評価に2点が加算されます。
ブログルポユーザー以外の方もトラックバックできます。
トラックバックする場合はコチラ↓


2007/04/09 21:07:02









